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入舟トワイライトゾーン

 飯田線には8月の半ばに乗ったばかりですが、先日東京で開催されたBVEオフ会に参加したついでにまたもや乗車。沿線で一泊して伊那市~伊那北を重点的に取材してきましたが、中でも中間地点の入舟はなかなか興味をそそられる地域でした。 ■入舟すてーしょん ファイル 86-1.jpg  伊那市駅と伊那北駅の間を流れる小沢川が天竜川に合流するあたりの地域を入舟と呼び、その名の通りかつては天竜川の船着き場として栄えた街です。舟の時代から鉄道の時代に移ろってからも入舟の繁栄は続き、沿線随一の建築物密集地帯に。飲み屋街が線路ギリギリまで迫り出す様から「路地裏電車」などと呼ばれるほどになりました。 ファイル 86-2.jpg  現在は踏切名に名残を留めるだけですが、伊那電時代はここに「入舟駅」がありました。戦時中の国有化に伴い廃駅となりましたが、70年近く経った今でもプラットホームの遺構が残されています。  しかし現在の伊那市~伊那北間ですら駅間距離はわずか900m。かつてはその間にもう一駅あったとは驚きです。そうした駅過密状態も廃止の大きな理由でしょうが、戦時下としては周囲が歓楽街であった事の方が問題だったのかもしれませんね。 ■デタラメな縦曲線 ファイル 86-3.jpg  入舟踏切の手前、伊那市寄りには小沢川の堤防を越えるための急勾配がありますが、ここの線形は常識で考えると随分と無茶苦茶です。  小沢川にかかる橋は水平、そこから33.0‰で下りますが、普通鉄道構造規則の通りに計算すると、少なくとも100m程の縦曲線長が必要になります。しかし写真から読み取る限りせいぜい20mほど。まるでプラレールの勾配レールのようにグンニャリと曲がっています・・・。  さらに勾配を下りきった踏切手前の縦曲線がヤバイ。まるでBVE2時代のストラクチャよろしく、線路がカクッと折れ曲がっているではありませんか。 ファイル 86-4.jpg  線路図や標識によると33.0‰から4.5‰への切り替えですので、勾配差は28.5‰と少しはマシですが・・・どう見ても5mに満たない縦曲線長。特に速度制限が設けられているわけでも無く、こんな線路に20m級電車を走らせて大丈夫なの!? なんて思ってしまいます。  余りに異様なのでもう少し冷静に、逆方向の伊那北側から少し離れて観察してみるとカラクリが見えてきます。 ファイル 86-5.jpg  なんと踏切の前後に勾配が分割されているというオチ。本当は根本的に線形を改良したいのだけど踏切があるためどうにも出来ない・・・といったところでしょうか。  まぁ五分五分に分割したところで、本来はそれぞれ40mほどの縦曲線が必要になりますから規格外もいいところ。甲乙丙の更に下、飯田線が特殊と言われるのも頷けます。  実質二つの勾配が連続してあるわけですが、資料でも標識でも一つとして扱われています。これが混乱する一因でもあるのですが、いい加減というか何というか、現地を見ないことには理解できない事が時々ありますね。 ファイル 86-6.jpg  BVE5のお陰でこうした変則的な線形も再現できるようになりましたので、早速データに反映してみました。運転台からの視点では分かりにくい勾配ですが挙動の異常さは明確に現れますから、BVE5.3で搭載された「運転士の頭の揺れ」を効かせていると“グラッ”とした大きな揺れを疑似体験できます。 ■やきとりオリンピック  電車を撮るでも無く線路際でカメラをポチポチやっているのは不思議なもんでしょう、取材中に声を掛けられることが幾度となくあります。  時には好意的に、時には怪訝な感じで「何を撮ってるの?」と訪ねられますが、たいてい「飯田線の線路から見える風景を全て撮り歩いている」「模型の製作や絵を描く資料として」といった具合に答えています。厳密に言えば事実と異なりますが、ご年配かつ専門外の方を相手にCGがどうの、シミュレータがどうのというのは理解されにくく無駄に話が長くなるだけ。嘘にならない程度に置き換えて話した方が丸く収まるというものです。もちろん隠すような話でもありませんので、先方が話に乗ってこられた時は「最終的にはコンピュータ上で立体化してですね・・・」といった流れで詳しく説明させていただくこともあります。  意外に思われるかもしれませんが、これまでお叱りを受けたり邪険にされたことはありません。中には気の遠くなる話に呆れ返る方もいらっしゃいますが、概ね沿線の皆様には良くしていただいています。 ファイル 86-7.jpg  この日、入舟踏切の近くで声を掛けて来られたのは一人の老婦人。幸い今回も好意的な印象で、線路沿いを撮り歩いている由を説明すると「ウチも線路のすぐ横なんだよ、もう撮ったかな? 今帰るとこだし付いといでよ!」てな具合でお誘いを受けまして、突然お宅にお邪魔することに。旧入舟駅から徒歩0分。外見はタダの民家ですが、一歩足を踏み入れると小さなカウンターに小さなテーブルが2つ、そしてこれまた小さな小上がりがあってまるで居酒屋のよう。なんでも数年前まで焼き鳥屋を営んでらしたそうです。  「にーちゃんお昼食べた?」昼食は抜いてしまおうと思っていたのですが、いなり寿司に秋刀魚の南蛮漬け、冷たいお茶まであれよあれよという間に出していただいて、有り難くご一緒させていただくことに。 ファイル 86-8.jpg  食べながら元店内を眺めていると、ホント窓のすぐ外に飯田線。ちょうど電車が通過して行きますが、余りに近すぎて213系の台車しか見えません。少し五月蠅いけど「時報だねぇ」と笑い合う穏やかなひととき。しかし貨物が走っていた時代はさぞかし・・・なんて、話題は絶えません。  写真と見紛うほど良く出来た布貼り絵をはじめ、あちこちに「オリンピック」の文字が目に付き何かと思えば、当時の屋号がオリンピック。長野の?と思ったら、戦争突入で幻に終わった昭和15年の東京オリンピックに肖ってのことだと仰る。戦前はレストランとして、焼き鳥屋は昭和30年からとお聞きし、歴史の深さに驚きっぱなし。戦前から三四半世紀、ずっとこの場所で商いを続けて来られたのですね。  小さな電車がトコトコ走っていた伊那電時代、大勢の男子学生を兵隊として入舟駅から送り出したこと、自らも学徒動員で陸軍の伊那飛行場(戦争末期、空襲の激化に備え熊谷陸軍飛行学校を疎開させることになった)建設に携わったこと、華やかだった昭和30~40年代・・・、尽きぬ話はまさに生き字引。  お歳を召したとは言え女性に年齢を聞くのも如何なものかと脳内で逆算してみると、だいたい80代半ばといったところでしょうか。隣を歩いた時は足腰を患ってらっしゃるようで甚だ心配でしたが、座って話し始めると元気溌剌。さすが客商売をされていただけあってテンポが良い。貴重な生のお話を存分に聞かせていただきました。 ファイル 86-9.jpg  店を閉じた後は場所を貸して欲しいとの声も絶たないようですが、頑なに断っているそうです。少し生活感は感じるものの、掃除は行き届いているし壁のカレンダーも今月のもの。入口の内側に掛けた暖簾は「夕方になったら出すんでしょ?」と思ってしまうくらい、半世紀以上にわたるお母さんの記憶とリズムが染みついた聖域なのです。  「私はいつでもココにいるから、また来た時は寄ってね」別れ際にそう言って下さいました。そうだなぁ、私もこの場所はこのままであって欲しい。次の取材時にはこちらの銘菓でも持って、また話し相手にお邪魔しようと思います。お母さん、いや女将さんもどうかお元気で。  オリンピックを後にし、ここは汎用ストラクチャではダメだな・・・と、念入りに周囲を撮影。キッチリ作りたい、思い入れのある場所がひとつ増えました。  残念ながら線路側からではタダの住宅にしか見えませんけど、今は無き表側の看板や提灯、人懐っこいお母さんの笑顔、そして想像するしか無い焼き鳥の匂い・・・、運転する度にそれらを思い出せるようなデータに仕上げたい大切な場所です。

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